【大半が胡散臭く感じる教育業界やコーチングについて】
~これらを見分ける大切なもの~
僕が本格的にコーチングを学び始めたのは3年前。
ユニクロを退職し、さあ何で食っていこうかと考えていた時に、
教育業界に本格的に足を踏み入れる事にしてみた時でした。
親からされた教育方法や教え方をたまたま褒められて、
何年か前に何気なしに手にとったコーチング本のやり方に似ているのを実感したのをふと思い出し、
そこからコーチングにのめりこんでいったのです。
それから僕はもっと体系的に学びたい、極めていきたいと考え色んなコーチングスクールを調べてみました。
するとどこも皆が楽しそうに賑やかに写真映りしているものばかりでした。
まあそれはいいとして 皆がやけに「仲間 仲間」を連呼し、
直ぐに「夢・感動・友情」といった薄っぺらい言葉で煽るものばかりだったんです。
なんか生理的に嫌だった。
あんなに素敵だな~と思っていたコーチングに
「気持ち悪い」というレッテルを貼って蓋をしめかけたある時、
僕はあるコーチングスクールを発見しました。
当時そのスクールの代表は、
とにかく辛口でばっさばっさと
そうした馴れ合いや成果の怪しいコーチング業界を切っていました。
プロフィールを見たら今時のかっこいいお兄さんで、しかも同郷・同大卒。
この方なら仮にだまされても亡くなったじいちゃんに仕返してもらえばいいや~と思ったんです。
そこから僕の本格的な「コーチ」としてのトレーニングが始まり、
その方こそ今トラストコーチングスクールでご一緒させていただいている馬場コーチです。
そんな馬場コーチが常々おっしゃっている言葉に
僕はコーチングだけでなく教育の本質が隠されていると思っています。
それは、
コーチの仕事は、最終的にはクライアントを自走させる事
僕自身、前職をやめてから何件か著名な方の講演会やセミナーに行ったことがあります。
その中には一部高額なセミナーやベストセラー作家の講演会も含まれていました。
僕はたった一人で行く事ばかりだったのですが、
そこにいるのは沢山の集団ばかりでした。
口々に「久しぶり~」といった会話がいろんなところで聞かれては、
「次回はいつだっけ?」といった声もあちこちから聞こえてきました。
もちろん、皆が満足な表情を浮かべていました。
それはどこか映画の試写会に来ているようで、エンターテイメントとしては最高だったと思います。
でも、
「自立した自由な生活 なんちゃら」というタイトルとは裏腹に
彼らは全く自立できていないようでした。
日本の教育業界に踏み入れた僕はまだまだ日が浅いです。
実情も詳しくないし語る事なんてまだまだ出来ないけれど、
それでも思うのは、
教育者は自分のエゴのために教育を行ってはいけないんじゃないか?という事です。
もしくは、自分の感情や権力で生徒を振り回してはいけないんじゃないか、
という事です。
それは塾でも学校でも、部活動でもそう。
子供達はそれを見分ける力はまだ持っていないし、直ぐに影響されてしまいます。
振り回されてしまう気がするんです。
また、その中でもそうした教育者が自分の言う事を聞かない生徒にはどうするか?
熱く語るんです。感動させればいい、と思っています。
でも、そんな浅はかな教育に一体どんな価値があるのでしょうか?
僕はそんな薄っぺらい教育が嫌で自分の個別指導塾をたちあげました。
もっと子供の心や保護者の方々と真剣に向き合うため、信頼関係を結ぶためです。
困ったら感動する話をすればいい、人の感情に訴えればいいという薄い教育ではなく、
信頼を基盤にした心の底から自然に出てくる熱い気持ちを味わうためです。
そこに僕はコーチングの力を使いたいと思っています。
良質なコーチングの見極め方は1つ。
それは、受けると段々と自立していく感覚が味わえることです。
細かな事を聞かなくても日々のコーチの背中から、
今 自分に必要な事はなんなのか?
今の自分に対してなんと言ってくるだろうか?
というのを「自力」で考え、動く事が出来るようになります。
もちろんどうしても必要なときに節目節目でセッションは入れますが、
あくまでクライアントとしての自分は、
自力で 新たな行動を踏み出すための何かを閃きたい、感じたい 気付きたい
と思ってセッションに挑むわけです。
そこにはきっと「俺じゃないとだめ、何かを教えよう」というエゴは感じられない気がするのです。
平凡な教師は言って聞かせる。良い教師は説明し、優秀な教師はやってみせる。
しかし、最良の卓越した教師は子供の心に火をつける。
ウィリアム・ウォード
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