その日はありきたりな毎日と全く変わらない1日で、
あの時 僕たちは各キャンパス毎にちょっとした卒業儀式を行っていて、友人達と写真を撮ってはそれぞれが一斉に自分の人生を踏み出していった。
そして
その門出の日に当たり前のように皆が口々に発していた言葉があって、もちろんその言葉は僕だって使っていたわけなのだけれど、
当時の僕は特に気に留めていなかったし「卒業」からちょうど4年経った今でさえも ちょっとした別れの時のその言葉の便利さには頭があがらない。
でも同時に
しばしばその薄っぺらさに少しだけ寂しさを感じるようになる時もあって、
そんな時
僕はふとある友人を思い出す。
なぜなら
彼との別れ際はちょっと切ないけれどでもとっても素敵だったから。
彼とは幼馴染で 幼少期すごく仲が良かったのだけれど、中学から私立に行った僕はもう彼とは一切会わなくなった。
「会い辛かった」
「会えなかった」
という方がもしかしたら正しいのかも知れないけれど、たぶんお互いがどう接していけばいいのかわからなかったんだと思う。
それでもそんなこんなで時が過ぎ
2年前。
それこそ偶然に13年ぶりに彼に会った。
彼にはもう子供がいて、その時に話したのは2、3言。
当時は呼吸をするかのように溢れでてきた言葉達は、終わりが近い歯磨き粉のチューブをなんとか絞り出すかのようにしか出て来なかった。
お互いの感情を探り合うように交わす言葉のやりとりが終わり 長い沈黙の後、
最後に僕が使い古されたあの言葉でその場を締めくくろうとした時、
彼が僕の言葉を自然に遮る形で伝えてくれた最後の“ひと出し”が
今でもどうも忘れられない。
そして その綺麗な言葉を
僕は 今でも人に伝える事がなかなか出来ない。
そっか。。。今すごくいい感じなんだね。
…お元気で。
巷でよく言われるように
僕達にはその時々で もしかしたら必要な出会いというのがあるのかもしれなくて、その出会いの積み重ねの中で きっと今を生きているんだと思う。
僕自身もこれまでに素敵な『出会い』に恵まれてきた。
でも
それらの素敵な出会いも全てが決して永遠でもないし、きっと決まり切ってもいないのかもしれない。
同じ出会いでも人によっては何十年にも及ぶ付き合いもあれば、旅先でのほんの数分間の出会いや美学だってあるし、一旦 離れてもまた繋がる事だってしばしばだったりする。
それにも関わらず、
いつまでも社会から「変わり続ける事」を余儀なくされる僕達は 実は「終わらせる事」がとっても苦手で、
波長が合わなくなってきても 過去ばかりを美化してしまい、しばしばそれを有耶無耶にしながら関係を続けたがる。
「また今度」
「絶対に飲みに行こう」
と、
時に内心とは裏腹に僕達は言葉を交換し合うけれど
結局そんな約束は果たされることはなくて、せっかくの出会いがその一言でなんだか味気ないものになったりもする。
4年前
皆が口々に
『また絶対飲もう、連絡する!』
と言っていたけれど、たぶんその半分以上とはもうこれからきっと一生会うことはないんだと思う。残念だけれど。
もちろん、それは仕方のない事と言えば確かにそうかもしれない。それを言い出したらキリがないし むしろこの言葉を使う事でうまくやっていく事のほうが多いし、実際僕自身もすごく助かっていたりする。なんでも綺麗にやりたくてもそうする事はほんとに難しい。
でも そんな事を考えながらも一方で、彼のこのたった一言で終わりを「仮決め」できた事がこんなにも清々しいと感じることができたのは、
逆説的ではあるけれど どうも僕にいつかまた彼とどこかで近づく時が来ることを感じさせてくれたからなんだと思う。
それはつまり、そのあえて「終わらせる事」は実は永遠の終わりではなく、今はちょっとの間 互いが互いの人生を別々に育み・紡ぐ時期で、今は一緒にいない方がいいと思わせてくれるからだったりするからなのかもしれない。
それはもしかしたらちょうどまた今年もいよいよ満を持してやってくるサクラの季節を心待ちにしているこの気分と同じように。。。
全国の高校・大学の卒業式もちらほらと始まっているようです。
使い勝手の良い便利な言葉でひとつの締めくくりをするのもいいけれど、
素敵な時間を共有した遠く離れてしまうたった1人の友人に あの言葉を選択できると、また少しだけいつになるかわからない偶然の再会が楽しくなるのかもしれません。
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