それは何かの経済学の本だったと思います。
その中で著者がこんなエピソードを話していました。
ある時 何気なくタクシーに乗った時、 運転手さんにこう聞いてみました。「タクシーに乗って、会計後、 『ありがとう』とちゃんと口にして出られるお客さんってどの くらいいますか?」そうするとタクシーの運転手さんはこう答えました。「そうですね~、目を見てきちんと言葉にされるのは 一、二割ぐらいの方でしょうか。」
このエピソードを読んだ時、 「え、すくな!」と感じたものでした。
「てか、そんぐらい言えよ。笑」と。
でも、ふと気になって、こうも思えてきたのです。
『いや…待てよ…でも実際に目を見て、ほんとに相手に伝わる言葉できちんと伝えているのだろうか…?』
と。
伝えた気になっているだけなのではないか?
と。
色んなものが「サービス」として当たり前に普及し, それらの基準が自然に上がってくると、どうしてもそれに対するありがたみというものが希薄になってしまうのかもしれません。
もちろんこれは僕の単なる そうした社会や世論への「傾向」に対する問題提起に過ぎず、
僕も意識はしているけれど きちんと「言葉に気持ちを乗せて表現」までは正直怪しい…
というか もしかしたら出来ていないかもしれない。
それは街のコンビ二であれ、
飲食店であれ、
生徒さんや御家庭、
友達・家族であれ。。。
それらの感謝の言葉は 時として表上の言葉にみせかけた 必要か不必要かもわからない「かさぶたのようなもの」に成り下がってしまうこともあって、
それを相手にとって意味あるものとして提供し続けるのはやはり難しい。
それでも、時に一人ゆっくり内省する時間ができた時、ふとこれまでのされてきたことに思いを馳せる時間に立ち返ることができると、
自分のこれまでの至らない行為を悔やんでは、
なんとも言えない『焦燥感』みたいなものに包まれたりする。
ところで、ブログや情報発信を日々意識的にするようになると 今までに全く気付けなかった事に気が付きます。
それは、 自分以上に誰かのためにしっかり相手に伝わるように 「為になる」メルマガやブログを書かれている方への尊敬と感謝の気持ち。
特に、 その人のエゴではなく自分が求めていたような事をさらっと書いて手渡してくれるような文章には 時にふと感謝の気持ちがあふれてくる。
でも、 そんなに感謝の気持ちがいっぱいなブログでさえも 僕はと言えばせいぜいそれを読んで実行して終わりなだけだったりする。
facebookではいいねがあるけれど、ブログやメルマガにはそうしたリアクションはハードルが高い。
でも、当然の事ながらそれでは書いた側に全く伝わらない。
もちろん直接メッセージを打ったり メールを書いたり、お手紙を書ければいいのだけれど…
きっとそこまでしている方も、 あのタクシーの運転手への「ありがとう」のように1割ぐらいなのかもしれない。
いや、きっともっともっともっと少ないんだと思う。
もちろん そんな事を考え出したらキリがないのだけれど、でもだからこそ、
それに対して時に嬉しい感想や感謝の気持ちをわざわざ伝えてくれている方々にはほんとに頭が上がらないし、好きになってしまう。
素敵だなって思うし、僕も何かお返ししたくなる。
そして それがそのまま僕自身のモチベーションとなり、更に自分の持っている知識や知恵を それを求めている人に届けたり、読んでいてなんか楽になれたり気持ちよくなるような文章を書きたいなとも思うようになってくる。
僕達はついうっかり悪気は全くないのに「ありがとう」を忘れてしまう。
海外ではそれらがチップとしてあるわけだけど、 僕ら日本にはそんなものはない。
でも、それでいてサービスレベルはやっぱり世界的に見ても素晴らしい。 それは僕も海外で暮らして感じたし、やっぱり日本の空港に降り立った瞬間のスタッフの方々のお辞儀はとっても嬉しかった。
この矛盾やメカニズムはわからないし、 わざわざ考察してみようともおもわないけれど、
それでも ただ1つだけ 考えてみたいことがあるのなら、
《もしも僕達が言葉に気持ちを乗せて 感謝の気持ちを相手に伝える機会を増やす事ができるなら、相手と僕たちとの関係性は 今までといったいどう変わるのだろうか?》
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