とある学習塾で英語の集団クラスを担当させて頂いていた時、そのクラスにずば抜けて英語が出来る生徒がいました。
彼は中学生の内に既にTOEIC950点(英検1級レベル)を取得しており、幼い頃から英語の辞書や文法書ばかり見て育ってきた正にリアル版生き字引き。
私から見てもその知識には脱帽で、正直 細かい知識を問われたら教師としての私自身の方が答えられないのは目に見えていました。
彼は正に英語の例文にあるような
『He is what is called “a walking dictionary.”』
“彼はいわば 歩く辞書 だ。”だったのです。
ある日の事、私はそんな彼とひょんな事から対立した事がありました。
英語には稀に 前置詞を問う問題で 一概に正解を1つに絞れないものが出てきます。そうした問題は時に特別に解答が2つ認められる場合もあったりするのですが、その時 私はその可能性をうっかり見過ごしていたのです。
落ち着いて考えてみると確かに2つの答が導けるし、彼の指摘を受けた瞬間に私もハッとしたのものでした。
でも、その時の私は意地になっていたのかもしれません。
彼から指摘を受けた時、私は咄嗟に自分を守ろうとしました。
つまり、『いや 答はこれだから。』というスタンスで乗り切ろうとしたのです。
それはどこかに、
教師は常に完璧であり続けなければならない。
失敗は許してはならない。
という想いが根底にあったからなんだと思います。
でも、彼は様々な角度からその別の答の可能性を指摘していくのです。
結果として私は彼の意見を取り入れざるを得ない状況になりました。
英語を教える身として、一番プライドが傷いた瞬間でした。
授業後 彼とはいろんな話をしました。
私は、その時今の心の内を正直に打ち明けてみたのです。なぜそうしたかはわかりません。今思えばそれは恐らく、単に自分自身の甘えであり逃げでもあり、そして不安だった事でしょう。それをやり過ごす心の体力は失われていたからなんだと思います。
自分の弱さや不安を彼に伝え、君にはどうあがいたってかなわない、という事を素直に認めました。
彼は、何も言わずに黙って聴いていました。
それから1週間後の授業だったでしょうか。
同じ授業の前にちょっとしたトラブルがありました。使うパソコンがうまく立ち上がらなかったのです。
映像レクチャーを使ったプレゼン式のこのクラスは時間がシビアな授業。出だしがつまづくと授業全体が一気に白けます。
私は非常に焦っていました。
やべ〜っと思いながらパソコンをいじくり回していたその時、開始3分ほど前に誰かが手を差し伸べてくれました。
あの時の 彼でした。
苦労する僕の横についた彼は そっと僕の注意を引きつけると、こう私に伝えてくれたのです。
『ここは僕やりますから。僕に任せて 先生はイントロダクションに集中して下さい。』
『お。おう、』
と、私はすぐに自分の資料に目を通し始めました。
やる事や伝える事を確認しながらひとつひとつ整理していきました。彼の言葉もあり気持ちを落ち着ける事ができた私は授業開始後、彼が環境を整えてくれている間にイントロのストーリーを語り、生徒達の心をうまく自分の話に呼び込む事ができました。
そして、
ほんの2、3分のズレはありましたが、彼のおかげでなんとか平穏に授業を乗り越える事が出来たのです。
それ以来 彼は事あるごとに私を何度もフォローしてくれるようになりました。
私達 先生は、時に完璧である事を求められます。
先生が絶対。
先生は間違えてはならない。
それ故に自分自身でも完璧なる教師像を知らず知らずの内に求め過ぎてしまう気もするのです。
教師の役割が日々、指示、命令、否定、禁止が多数占める公教育ならば尚更なのかもしれません。
常に先生は生徒の上に立ち続けねばらない。
そう、心のどこかで自分で自分を縛ってしまう。
決めつけてしまうことがあるのかもしれません。
でも。
本当に彼ら彼女らはそんな教育を望んでいるのだろうか?
教育の目的を、果たしてそれで果たす事ができるのだろうか?
あの時の彼はなぜ、私にああした指摘をしてきたのでしょう?
一方で、
なぜ彼は私をあの時 助けてくれたのでしょう?
その答えは きっと高校三年生だった当時の彼にしかわかりません。
そして、きっと単純に私に不満を持っていたから、というもので簡単に片付けられるものでもない気もするのです。
今回はたまたま運が重なって助けてもらう結果になったけれど、私のちょっとした意地で彼との信頼関係を永遠に壊し、ひいては彼のこれからの教師に対する見方を否定的に捉えさせかねなかったのかもしれないと思うと、時に怖くもなります。
ただ、そんな中でも一つだけ言える事があると思います。
それは
私がたまたま行った一連のコミュニケーションの数々が彼の行動を様々な方向へと導いていった、という事。
そして、そのトリガーを引く もしくは引いてしまう機会を私たちは常に意図せざるとも持ってしまっている、という事。
私がこれからもコーチング(コミュニケーション)を研き続けたいな、と考えている理由の1つは正にそこにあるのです。
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