5、6年くらい前でしょうか。
僕が世間で言う「コーチング」という学問に初めて出逢った時、その素晴らしさに興奮したのを今でもはっきり覚えています。
それはたまたま手に取ったコーチングの本で、
そこには僕が両親から受けてきた教育、
この人素敵だな・この人の期待に応えたいな
という思いになった方々が普段やっていたコミュニケーション(言語・非言語含めて)スキルが多数内包されているように感じました。
―――僕もこういう風に人の成長に携わっていきたい―――
大学に入ってから本の虫になった僕は元々 社会学や心理学、進化生物学等に興味があり、それらの学問と親和性のある「コーチング」は乾いたスポンジが水を吸うかの如く 一層僕の心を潤してくれては、心の奥底までスッと入り込んでいく感覚を与えてくれました。
当時、そういう思いでその他 沢山の「コーチング」の書物を貪り読んでいた気がします。
それからおよそ 2年後。
僕は新卒で入った会社を 1年で退職し、自分自身のオリジナルの教育というものを確立する為に教育業界に足を踏み入れ、早速この「コーチング」を使った指導を開始しました。
待ちに待った「コーチング」を使ったオリジナルの指導でした。
指導は早速効果を発揮しました。
当時講師をしていた大手学習塾では、すぐに勉強嫌いの子達を勉強好きに「変え」、僕の指導を受けてすぐに学校の成績が上がった子も何人もいました。
シーズンごとに行われるアンケートでは常に【大満足】が多数。夏休みには隣の校舎からわざわざ僕の講義を聴きにやってくる生徒さんさえもいました。
でも、、、
そんな時間はあっという間でした。
あろうことか 彼らは受験の一番の踏ん張りどころでペースダウンしてしまったのです。
あんなに期待され勢いがあった僕の指導は、どこにでもあるような至って普通の成績、
いやもしかしたらそれ以下の結果しか残してあげる事が出来なかったのです。
当時、
確かに僕には生徒達の「わからない」を把握できる力はあったのかもしれないし、それをわかりやすく伝える力もあったのかもしれません。
それは、僕自身が腹落ちするのに時間がかかるタイプであり、勉強がわからないという彼らの思考がよりリアルにわかったからなんだと思います。
でも一方で、
僕の心は少しずつ少しずつある事と葛藤しているようにも思いました。そして、気付けばそれが大きくなっていた。
それが一番の命取りでした。
僕の心に徐々に芽生え始めたもの。
それは、
『厳しく要求出来なくなる』
というものです。
わかりやすく伝えはするし、実際にそれで彼らは思考をきっとクリアにすることは出来たんだと思います。
でも、彼らはそれ以上に僕から要求されることはありませんでした。
ーー少し甘くなっても許してもらえるーー
ーーわからなければ自分で調べなくてもわかりやすく説明してもらえるーー
いつしか僕は彼らにそのような印象を与えてしまっていたのかもしれません。
そして、そんな彼らが次に僕に期待すること…
それは
都合の良い先生
つまり
怒らない先生 、緩い先生
です。
それは 裏を返せば彼等を「依存させてしまう」ということでもあり、厳しい言い方をすれば「舐められる」ということでもあります。
そして一度そんな印象がつけば、彼らは自分の弱さに簡単に負けてしまうようになります。
結果として、
受験生にとっては一番精神的に辛い秋口に僕は彼らを失速させてしまうという事をさせてしまったのです
でも。。。
ではなぜ僕は彼らに要求する事ができなかったのでしょう?
それはきっと
僕自身が 彼らを伸ばしたいという教育者としとは当たり前の気持ちから、いつしか生徒達から好かれたいという気持ちに傾き ひいてはそれを克服できなったからなんだと思います。
そして、それが一度傾いてしまうとそこから抜け出すのはほんとに難しい。
ましてや大切にしたい子であればあるほど、最後まで慎重に関係性を保つ事を最優先してしまい、時としてその子にとって一番のターニングポイントを逃してしまう。
今、
あれから3年経ちますが、まだそれらを完全に克服したとは言えないかもしれません。
でも、最近はようやくこのバランスをだいぶ取る事が出来るようになってきた気もします。
ある「想い」に気付いてから。
コーチングスキルはとっても素敵なものです。
それは体感して頂ければきっとわかっていただけるでしょう。
でも、
それらが時として『洗脳スキル』としても使われている事実からもわかるように、
その取り扱いには本当に注意が必要だと僕は思っています。
そして、その取り扱いはまずは自分自身がコーチングを施せる最低限の心理状態にあるかどうか。
承認欲求と上手く戦いながら適度なところに落ち着かせ、自分自身を信頼できているか、だと思います。
そしてここで大切なのは このバランス
コーチングをしている間 もしくは先生として指導をしていると、好かれたい という思いは誰でも持ってしまうものなのかな、とも思います。
やっぱり僕も好かれたいし、良いセッションだったって思ってもらって帰ってもらうのが理想です。
生徒の子達だけでなく親御様からも
『マサはすごいね、マサ君に預けて良かった。』
とか、
『小田原先生みたいな教育を探していた。』
って やっぱりずっと言って頂きたいし、僕自身も気持ちよく家路に着きたい。
でも…
それ以上に僕自身が生徒の子達を
「中・長期的に何が何でも成長させてやる、勉強を好きにさせてやる」
とか、
「絶対幸せにさせてやりたい」
とか
「御家庭の仲やコミュニケーションをワンランクもツーランクも上げられる立場としてまじで役に立ちたい」
という想いが それらの僕の欲求に競り勝ち、その結果として最悪嫌われてしまってもいいと覚悟が自分の中で決まっていなければ、きっとコーチングってうまくいかないんじゃないかって事です。
少なくとも今の僕はそう思っています。
それくらいコーチングスキルは深いし、危ういスキルだとも思っています。コーチングに付随した学問の書を読めば読むほどその怖さに気付いてしまいます。
だからこそ、そうした欲求に打ち克つ以上の相手への深い深い愛情が必要なんだと思うのです。
これらのマインドは教育とかコーチングだけでなく、友情や恋愛にも当てはまると思います。
本当に好きだし、相手にはほんとに幸せになってほしいって覚悟が決まっているからこそ、然るべきタイミングで意見することが出来るし、逆説的だけどそういう捨て身の覚悟があるからこそ彼や彼女から信頼を勝ち取っていけるのだと 僕は信じています。
生徒たち
そして大好きな友人や異性に対して 然るべきタイミングを見究めて、核心を突いたフィードバックや要求ができるかどうか。
その時の為に 常日頃からその人の為に小さな気遣いや愛情を注げるか。
そして、
場合によっては最悪この人を失ってもいいと腹をくくれているか。
それこそが、この3ヵ月くらいで僕がようやく気付けて確信できてきた、誰かの成長に携わる教育者として常に飛び越えていくべきハードルのひとつだと 今考えています。
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