教育のオーソドックスを捨て去ってみる勇気

3年前に個人で個別指導塾を開始し、英語を軸に高校生たちに科目を教えていた頃、

ふとした時に

 

「もっともっと英語の知識をつけないと。」

 

という衝動に駆られたことがありました。

 

 

生徒から聞かれた時に全部答えられないと教師としてダメだ、と思っては、現在の自分の英語の知識・知恵に落胆し、コーチにこう宣言したみたものです。

 

「英検一級を取ります。TOEIC950点を取ります。

その為に更に勉強時間を増やし受験生のように1日3時間以上英語の勉強に充てたいと思います。」

 

当時はそれこそが、英語を教える上で最適なオーソドックスなやり方だと思いこんでいたのです。

 

ただ、コーチから言われた一言は意外なものでした。

 

そしてその時のコーチの一言が今のM’sLABOの売りの1つ、

つまり

《教科を直接教えずに成績を伸ばしていく指導法》

に繋がっていったのです。

 

 

 

 

「小田原君さ~別に目指す目指さないは君の勝手なんだけど…

それってほんとに今 必要なの?」

 

 

 

 

 

 

【オーソドックスなやり方】

 

この言葉は、【一般論】 【常識】 に並んで 時に僕達の思考や行動を大きく縛り付けてしまうものなのかもしれません。

 

授業と言えばこれが常識

一般的にはこれが教育者のあるべき姿

 

などなど…

 

これらの単語を使われてしまっては、僕たちの行動はがんじがらめになってしまうし、

一方で 自分でそれを使ってしまえば 新たな行動に思いを巡らせることもしなくなってしまうのかもしれません。

 

英語の先生なんだから英語を直接教えるのが常識でしょ。

体育の先生なら体育をすることがオーソドックスなやり方でしょ。

 

 

でも、

一方でそれらには「目的」が確かにあって あくまでオーソドックスなやり方とはその目的に至る道の1つの手段にすぎません。

 

例えば、僕なら

 

《なるだけストレスをかけずに成績を伸ばしてあげる》

 

という1つの目的があって、その手段として確かに

 

《具体的に0から全て教える》

 

という塾講師や家庭教師のオーソドックスなやり方があるだろうし、それを信じていたし、それをやることが善だと思っていた。

そして何より生徒さんや親御様もそれを当然の如く望んでいるだろうと思い込んでいました。

 

 

ただ、それらは必ずしも

《なるだけストレスをかけずに成績を伸ばしてあげる》

という目的からすると合理的ではなかったりして、時代が変われば当然それらも変わってくるし必要とされることもまた違う。

 

今ではリクルートが出しているスタディサプリを使えば月額わずか数千円で、僕が一生かかっても到達できないような超凄腕講師の授業が全科目見放題だし、

そこでわからなかったところは学校の先生や頭の良い友人に単に聞けばいい。僕がわざわざ教えなくてもよい。

 

 

一方でそれ以前に、

成績を着実に上げていく上で大切な 勉強や生活していくモチベーションだとか、

思春期特有の悩みとの付き合い方等を整えていく存在が全くいなかったし、そういう人の必要性はずっと求められていた。

 

だからこそ僕はそこにあえて踏み入れてみる事にしたのです。

プロコーチ…

ひいてはコミュニケーションの専門家として。

 

 

 

 

 

 

ところで、僕は中学生には今でも科目を教えていますが、時にふとド忘れしていることもあります。

もちろんその日にやる所の予習はしていきますが、突発的にその他の範囲の質問もされることがある。

そういう時には

「あ、ごめん。俺もわかんねーや。笑」

と言い、一緒にスマホを取り出してはグーグル先生に一緒になって教えてもらうのです。

でもそれで不機嫌になられたことはまだありません。

 

なぜなら、勉強をあえて教えないというスタイルによって大幅に増えた時間を遣い、

それ以外のコミュニケーションで彼らから信頼してもらえるような心配りに時間を投資する事ができるようになったからです。

 

 

そして何より

別に全てに答えられることが先生として必ずしも必要な事ではない

と今では知っているからです。

だって、なんでも知っている先生にはきっと生徒たちは依存してしまうから。

この人は頼りないから自分で調べてやってみようという気になることも、時にあったりするからです。

 

 

 

 

これらは学校でももしかしたらあるのかもしれません。

オーソドックスという名の縛り。

それによって沢山の時間を費やしてしまっている事…

 

なので、まずはLHRや道徳の時間といった時間、もしくは終礼とかちょっとした自由にできる時間の中で

非効率な「オーソドックス」になっているやり方や内容をあえてぶち壊してみて、

自分自身が気になっている事、

信じている事を試されてみて、

一番子供たちの反応が良かったものや表情が変わったもの、

新たに気付きを得た事を少しずつ少しずつ試してみるといいのかもしれません。

 

そうする事でいつか時間を大幅に減らし、

今までよりもむしろ余裕を持ってお互いに価値を感じられるような時間ができるかもしれない。

 

 

 

 

 

学校の先生という大仕事は僕には出来ませんでした。

特に兄をみていたのもあり、公立中学校の先生方には頭が上がらないです。

そして時給も発生しない土日も生徒さんの為に自分の時間を削ってボランティアで部活動に参加される先生という仕事。

そういうあり方・生き方。

それは子供たちに対する愛情が普通の大人に比べて相当にない事にはきっと務まらないんだ思います。

だからこそ、きっとほんとに価値ある新たなオーソドックスを構築できるはずだと僕は信じています。

 

 

まずは

オーソドックスを疑ってみませんか?

それは目的に対してほんとに必要なのか、を問うていきませんか?

 

何かを変えるきっかけになってもらえれば、それほど嬉しいことはありません。

 

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