失敗から学んだ子育てへのヒント~こうあるべきから解放される~

その「出来事」は僕にとって大きなターニングポイントで、

今ではその出来事が僕に勉強のあり方だけでなく色んなものの見方を変えてくれたのだけれど、

そして僕はそんな解釈がこれからも自分だけでなく 時にある方への処方箋にもなる事があるのかなって思って、

備忘録ついでにここに記しておこうかな、と思います。

 

 

大学生に入りたての頃、僕は英語コンプレックスを打開しようと

日々にノルマを決めてTOEICを指標にした英語学習を毎日続ける決断をしたんです。

理由はありません。ただ、燃え尽き症候群を避けたかったのと、

大学生になるとほとんどの学生が英語の勉強なんてやらなくなるからここが逆転するチャンスだと思ったんですね。

毎日90分間、早朝や講義の合間、バイト前やバイト後の隙間時間を使ってほぼ毎日勉強を続けていきました。

そしてそれを卒業まで4年間続けてみた。

でも、

結論からお話すると毎日勉強していたにもかかわらず、最初にふっと成績が伸びてからは1年半ほど全く結果がでなかったんですね。

ほとんど変わらなかった。

なぜなんだろうな~って悩み、時に物に当たったり 泣きながら親に電話した事もありました。

 

別に義務ではないし、誰もきっとそんなこと知らないし、止めたって誰に文句も言われない。

それでも、あの時はひたすら日々の自分と勝負をしていて結果だけがそれに打ち勝つものだと信じ、

そして何よりこんなにやってるんだから結果が出ないわけがないと確信しきっていました。苦しみながら、それこそとにかくがむしゃらに。

 

 

そんなこんなである日、たまたま大学でTOEICのテストがあるとの告知を目にしました。

当時、僕にはTOEICの成績が同じくらいの友人がいて、彼もまた受けるとの事だったので、負けまいと一層必死に勉強しました。

必死に「努力」しました。今まで以上にあらゆるものを我慢しました。

彼は僕と違って、テストの対策をして「いないよう」に見えたので、なおさら僕は彼をライバル視していました。

でも…

結果は縮まるどころか100点ほどの大差がついて僕は負けてしまいました。

あんなに準備していたのに。「努力」したはずなのに。

そして

ここにこそ、話の本質があります。

 

 

 

彼は確かにTOEICの対策はほとんどやっていなかった。

でも、彼は外国人と会って話すのが好きで外国の文化に触れるのを心から楽しんでいるようだった。音楽や映画、文学等、

彼は『英語』という言語の背景までをもしっかり味わい尽くしているようだった。

そしてそこには勉強としての英語ではなく手段としての英語が確かにあったように見えました。

何より彼は心からその時間を楽しんでいるようだった。

一方、僕はひたすら図書館にこもり受験としての英語ばかりをやっていた。

やれ文法だ構文だと、対峙するのはいつも目の前の分厚いテキストばかりだった。

この時 僕は

「没頭こそが努力に打ち克つものなのかもしれない。」

と初めて気付いたんです。

はっとではなく、

薄々それに気づいていくというより諦めて認める、という感じに強かった。

 

 

 

それ以来僕は

【勉強=必死にやるもの】の定義を片っ端から崩しました。とことん排除しました。

もちろんそれは楽をしたりさぼるわけではありません。

どうやったら楽しく出来るか、自分が没頭できるかを「工夫」するようにひたすら考えてみたんです。

それからというもの僕は気付けば、あんなに苦手だった「学ぶ事」が好きな人になっていました。

月に本を何十冊もむさぼり読むようになり、ビジネス書や経済ニュース、文学に触れる日々が好きでたまらなくなりました。

そして、そうした知識や知恵は至る所で僕を助けてくれ、自信を持たせてくれました。

卒業間近に受けたTOEICは、目標とする900点には後一歩届かなかったけれど、

そのレベルまでに4年間で伸ばしきる事ができました。

全ては、「こうあるべき」から解放されて。

 

 

僕達はしばしば何かを規定したがります。カテゴライズしたがります。

それは、

自分はこうあるべき

親はこうあるべき

店長はこうあるべき

仕事はこうあるべき

などなど。

そして、確かにその定義付けって考えなくて集中できて楽だし、都合がいいと思います。

なによりかっこいい。

でも、時にその前提条件が間違っている事だって大いにあるのかなって今はふと思ったりもします。

当時の僕と同じように。

例えば、子供にとって母親はこうあるべきだって思っていても、子供は実はそんな母親を望んでなかったりするかもしれない。

弱さを見せたらいけないと必死に努力していても、でも子供からしたらそれがかえって辛かったりするかもしれない。

本当は弱いところも見せて欲しいと思っているかもしれないんです。

それに満たない自分に鞭打って自ら子供が望んでいない「母親」になろうとしていたりするかもしれないんですよね。

でも、僕自身は大抵、「こうあるべき」と思っている事ほど、うまく機能しない事もそれなりに多かったりするのかなって思ったりします。

なぜなら、その時点で視野が狭くなっていて他のよりよい情報が見えなくなってくるから。

 

「こうあるべき」という考え方はとても清清しくて綺麗で、容易いけれど、その分何か大切な本質を見失っているかもしれない、という事を常に頭にいれておくといいのかなって

今ではゆるく思うようにしています。

力を抜いて。

そして、仮にそれに気付いてしまえば物事はそこから次第にうまくいくようになっていくのかなって、思います。

実際は分からないけれど。。。

 

僕、最近プライベートでも力を抜く事を意識しているんですよ。だって、怪我するのって力が変に入りすぎているからじゃないですか。だから、意外に思われるかもしれませんが、僕道でぶつかったりしたら軽くよろけたりとかって、結構ありますよ。笑      イチロー

 

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