記念受験って必要なのでしょうか?
少し角が立つ言い方になりますが、触れさせてもらいます。昨日、隣に座っていた高校生達が話していたので、少し気になり…
今、私立大学の出願が大詰めです。受験生の皆さんは センター試験の出来等を含めて今は必死に志望校を選択したところだと思います。不況もあり今ではだいぶ少なくなりましたが、以前は「記念受験」というのがありました。とりあえず、憧れの大学…早稲田や慶応を受けておこうというアレです。
ただ、どうも僕は引っかかってしまいます。
それ…
どうなんでしょう?
挑戦が大事なのは、もう周知の通りだと思います。そして、それに失敗はつき物というのもわかることでしょう。
なので、きっと彼らは「言い訳」を用意したいのかな、と思います。真面目に受けて落ちたらかっこつかないし、変に自分に期待し過ぎて落ちてしまったら、感情のやり場に困ってしまう。それを無意識に感じ取り敬遠したくなる気持ちはとてもわかります。
ただ、それでもそうしたマインドで受ける事に僕はどうも違和感を感じてしまうのです。それはどこか、『ビリになるのが怖いから 一緒に並んで走ろう、約束だよ。』という 小・中学生でありがちなやりとりに見えてしまう。
記念受験の弊害は、今後の人生でその大学に対して常に下から見上げないといけなくなってしまう事なのかな、と思います。ここは到底自分には無理なんだ、という気持ちが『記念受験』という言葉には内包されているからです。もちろん、それは先生や周りの方々からの刷り込みは多少あるでしょう。世間の彼らへの取り巻が、もしかしたらよくないのかもしれません。でも、決して見下せというわけではないですが、そんなに謙遜する必要もない気がするのです。大学に入ってから逆転することなんてザラにありますし、有名私大でも大した事ない人は沢山いる。入ってからいくらでも挽回できる気がするからです。
また、やはり記念受験はお金がかかります。 一校につき35,000円です、およそ。憧れを抱くためだけにはどうしても高すぎる気がします。 35,000円あったら、シーズンオフにお気に入りの本 2,3冊片手に弾丸で沖縄でも行ってビーチで読書しながらこれからの事を思索する方がよっぽど有意義な時間になるのではないでしょうか。
確かに、『チャレンジ校』ってその名の通りチャレンジで、そうそう上手くいかないんですよね。ビリギャルなんて、やっぱりレアです。でも、レアはレアでも可能性は決して0ではなくて、必ず毎年いるのは事実です。そして、そういう子達は決してそういうマインドで受けていません。そういうマインドで受けていたら受かるものも受からなくなってしまうと僕は思うんです。もちろん、力がいい感じに抜けて良いパフォーマンスが出来る事もありますが、それはまた違う話でして…
ベタですが可能性が1%でもあって、自分の中でよいイメージが出来上がっているのなら、自信を持って受けてくれば良いのではないでしょうか。それだけイメージが鮮明であるのなら、僕は面白いと思っています。実際、僕は受験でそんな体験をしました。今もよくわからない不思議な体験をした受験もありました。落ちる時は落ちるし、受かる時は受かる。それが受験の怖さであり面白さの1つだと思います。
その為には必ず受かるつもりで臨むこと。
そして、なるべく良いイメージを持つ事。
それで仮に落ちたとしても、その失敗から沢山学べるからです。
せっかくこれまで頑張ってきたのですから、受けるからにはきちんと準備して受かるつもりで。そして単なる記念受験なら受けないことを僕は強くお勧めいたします。
だって、今の環境で一般受験をするのってそれくらいハードでよく頑張ってきた証拠ですから。。
もったいないですよ。
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